2008.06.05
ゴールデンウィークも終わり、いつもの生活が戻ってきました。
日々の仕事や用事に追われ、なかなかまとまって一つのことをするということが叶わないのですが、今年は源氏物語千年紀。紫式部が源氏物語をちょうど千年前に書いていたということがわかっています。
京都はあちらこちらで、いろいろなイベントや講演会などが開催されています。私も昨年から学生時代以来の長いブランクを経て、ようやく読み始めました。読んではとぎれ、読んではとぎれですので、先に進まずに記憶もあやふやになり、同じ巻を何度も読むことの繰り返しで、母からは「まだ読んでいるの?!」とあきれかえられる始末です。まるで亀の歩みのように、のろのろとですが読んでいると、学生時代に担当の教授がおっしゃたことがなぜかまざまざと甦り、その頃は、その先生の意図されていることの半分もわかっていなかったように思うのですが、その意味がようやく理解できるような気がします。
源氏物語には、情景描写として様々な植物も多く出てきますし、女性達も花に例えられたりしていますので、そういうところもいけばなをしている者としては趣深く感じられます。いけばなをしていると、いかにしてその植物の本質を捉えていくのか、そして自分の中で咀嚼して表現していくのかが大切になってきますが、紫式部の筆致からは千年前と今との自然環境の違いはもちろんのこと、彼女がいかに豊かな才能と鋭い観察力を持ち、またそれを言葉としてあらわしていたのかが伺い知れ、自分の植物を見つめる目の浅さに愕然とさせられることも・・・。
このところ、改めて表現する難しさを思います。いけばなは自然の植物を切っていかすのですが、そこでいけられたいけばなは決して自然の再現ではなく、いわばそこにいける人の目と心を技というフィルターを通した虚構なのです。かといって全くの作り事や嘘でももちろんありません。そのあたりの微妙なバランス加減がおもしろさであり、難しさにもつながります。
もう一つ、源氏物語では登場人物達の心の動きが、とても鮮明にいきいきと描かれています。時には悩み、悦び、時には苦しみながらも、その姿の中にいつも心の存在があります。いけばなにおいても、出来上がった作品が"生きている"という瑞々しさがあるかどうかということを問いかけます。生の花をいけているのですから、生きているのは当たり前といえば当たり前なのですが、中には生きている花なのに生きているように見えない場合も残念ながらあります。生きている花があり、生きているという実感と瑞々しさを持って、そこにあるように・・・静止している花の姿の中に躍動する生命の喜びを感じられたら、それは何とすばらしいことでしょうか。
今日も一日を終え、眠りに入る前の一時、源氏物語を少しずつページを進めながら、いろいろな想いが胸をよぎっていきます。



