六角堂について

聖徳太子創建の寺

聖徳太子が幼い頃、淡路島の岩屋に小さな唐櫃が流れ着き、太子が蓋を開けると中から黄金でできた一寸八分の如意輪観音の像が出てきました。そこで太子は、自分の持仏として大切にしました。そのころ太子は物部守屋と争っていたので、如意輪観音に勝利を祈り、「勝たせていただければ、四天王寺を建立いたします」と誓いを立てました。勝利をおさめた太子は、用明天皇2年(587年)、大阪四天王寺建立のための用材を求めてこの地に来られました。
ある日、泉のかたわらにある多良の木の枝に護持仏をかけて沐浴をされ、終わって仏を手に戻そうとされたが、どういうわけか、枝から離れません。その夜、「お前の守り本尊となってから、すでに7世が過ぎた。これからは、この場所にとどまって衆生の救済に当たりたい」、という仏のお告げを夢で見られました。信仰心篤い太子は、ここにお堂を建てようと決心しました。そこへ一人の老翁がやってきたので、「この辺りに観音のお堂を建てるにふさわしい木はないか」と尋ねました。老翁は「この近くに杉の巨木があります。毎朝紫の雲がたなびく霊木です。あの木を使うとよいでしょう」と言って去りました。老翁に教えられた場所に行くと、一本の杉の木があったので、それを伐ってこの地に六角の御堂を建てて護持仏を安置されたと伝えられます。
寺号は紫雲山頂法寺。「六角さん」の名称で、京の町の人々から親しまれています。

本堂

本堂

 

いけばな発祥の地

六角堂の北面に、太子が沐浴されたと伝えられる池跡がありますが、この池のほとりに小野妹子を始祖と伝える僧侶の住坊があったので「池坊」と呼ばれるようになりました。池坊の祖先は、朝夕宝前に花を供えてきましたが、ついには代々いけばなの名手として知られるようになり、いけばながひろがりました。
現在は、いけばな研修のための道場・教室、また、業務の統括のために華道家元池坊総務所があり、各地の教授者との連絡、交流、指導が行われています。また、いけばな文化発展のために財団法人池坊華道会があり、池坊華道のもつ「和」の精神のもとに、いけばなの発展に全力を注いでいます。詳しくは、池坊ホームページをご覧ください。

聖徳太子沐浴の池跡

聖徳太子沐浴の池跡

 

西国三十三所、十八番札所。洛陽三十三所、一番札所。

六角堂は「西国三十三所巡礼」の十八番目の札所です。また、「洛陽三十三所巡礼」の一番目の札所でもあり、聖徳太子の護持仏と伝えられる『如意輪観音菩薩』を本尊として全国から信仰を集め、全国各地から多くの方が巡礼に訪れています。

また、愛称で呼ばれるお寺の集まった「通称寺の会」に六角堂も属しており、通称寺を巡る旅も人気があります。

納経所

納経所:ここで納経帳に印を押してもらいます。

 

ここが、京の都のど真ん中。

六角堂の東門を入ったところの敷石の中央に、奇妙な形をした石があります。円い穴があいており、これを「へそ石」、あるいは「本堂古跡の石」といいます。もとは門前の六角通りにあったのを、明治のはじめに、ここに移したものですが、かつてここが京都の中心地だったので『へそ石』と呼ばれました。惜しいことに寺は創建されて以来、しばしば火災にあい、現在の建物は明治初期の再建ですが、寺地は往古のままで、「へそ石」は発展した京都の中心として、今でも古都と華道の要となっています。

へそ石

へそ石

 

霊験をたたえた記録や逸話

平安時代から霊験をたたえた記録や説話も数多く残されています。平安遷都のおり、六角堂の所在が道路の中央にあたったので、桓武天皇の勅使が出向いて六角堂に向かってお願いしました。「この土地を離れたくないとおぼしめしならば、どうか、南北いずれなりとも、お移りいただきたい」。すると、にわかに天がかき雲って怪しい風が起こりました。さては観音さまがお怒りになったかと思ううちに、六角堂がひとりでに5丈(15m)ばかり北へ退いたといいます。