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池坊専好(初代)とは

池坊専好(初代)とは
華道家元三十一世。
生年不詳 - 元和7年(1621年)。

室町時代後半に活躍した実在の人物。応仁の乱の末に華道の精神を説いた池坊専応、全国に足を運び立花を伝えた池坊専栄。その後を引き継いだのが池坊専好(初代)である。
池坊専好(初代)写真
先代専栄の後継者として
先代専栄の後継者として写真01
池坊専応口伝 専好筆本(天理大学附属天理図書館蔵)
先代である池坊専栄が活躍中の永禄4年(1561)10月、専好(初代)が林覚正入道に花伝書(池坊専応口伝 専好筆本)を相伝した。「池坊帥専好」と署名しているのは、池坊の次期当主という意味である。
…もっと見る 九州の戦国大名島津氏の重臣が記した『上井覚兼日記』によれば、天正13年(1585)7月12日、「池坊舎弟帥殿弟子」である寿監(じゅかん)という人物が、和泉国から宮崎にやって来て立花を立てた。専好は専栄の弟で、兄の存命中に弟子をとっていたことになる。寿監は同月24日までの滞在中、立花や砂物を披露したり若衆たちに稽古をつけたりしている。
専好直筆の花伝書として永禄4年本のほか、天正13年11月8日に実子弥三郎へ相伝した花伝書や、天正15年10月に三川村新右兵衛尉への『大巻并座敷荘厳図』があるが、内容は専応や専栄の花伝書と変わらない。独自性を発揮するのは専栄没後で慶長8年5月に瓦本道専へ相伝した「花瓶之画図」は19の花瓶図に加え、花瓶の耳形の名と香炉の足形の名を記している。
初代専栄の後継者として写真02
大巻并座敷荘厳図
初代専栄の後継者として写真03
花伝書(池坊専好)
また、慶長11年6月の『座敷之飾花の子細家之極義秘本大巻上』では、砂物の技法を図を用いて詳しく記すほか、「一瓶一色之事」として蓮花・杜若・水仙・菊・松を挙げている。
…もっと見る この頃砂物の大型化が図られ、一色物立花の原型が成立したと考えられている。また、『花伝抄 乾坤』に写されている慶長17年(1612)3月の花伝書は、石見銀山の河村兵部烝に相伝されたもので、専栄が訪れて以来この銀山と池坊の間に交流が生まれている。
残念ながら専好(初代)の花の図はほとんど伝えられていないが、専好(二代)の花図を集めた『池坊専好立花図(冊子本)』(曼殊院蔵)の中に「専好師匠花写」と記される図が2つある。真の高さが花瓶の2倍弱で、次代よりも低くなっており、専好(初代)の作品である可能性が高いと言われる。
豊臣秀吉と六角堂
豊臣秀吉と六角堂写真
豊臣秀吉朱印状
専好(初代)の活躍期間中に室町幕府が滅び、安土桃山時代を迎える。織田信長の躍進の後、天下統一を成し遂げたのは豊臣秀吉であった。天正13年(1585)11月21日、秀吉の朱印状によって、六角堂は一乗寺村(京都市左京区)に一石の領地を与えらえた。
…もっと見る 一方天正17年(1589)8月6日に専好が奉行所に提出した文書によれば、六角堂が持っていた五石余りの灯明田は召し上げられた。これらは秀吉による新たな土地政策によるもので、引き続き京都の大規模な都市改造が行われ、多くの寺院が強制的に移転させられたが、六角堂の位置はかわらなかった。
毛利邸・前田邸の花
毛利邸・前田邸の花写真
文禄三年前田亭御成記(宮内庁書陵部)
江戸時代に編纂された『続群書類従』に2つの記録が収められている。ともに豊臣秀吉の大名御成(おなり)に関するもので、座敷飾りの花を池坊が担当したとする。
…もっと見る 1つ目は『天正十八年毛利亭御成記』で、天正18年(1590)9月18日、秀吉が京都の毛利輝元邸を訪れた時の記録である。専好(初代)が上段の床に松真の立花を立て、長床には鶏頭真の立花を立てたという。この頃には書院造の武家屋敷が一般的となり、床の間に飾る立花が求められたのであろう。
2つ目は『文禄三年前田亭御成記』で、文禄3年(1594)9月26日、秀吉が大阪の前田利家邸を訪れた時の記録とされる。
先の毛利邸御成は同時代史料(『晴豊公記』)でも確認できるのに対し、前田邸御成は実際には4月8日のことで(『駒井日記』)、当時の利家の居所は京都であり、干支にも誤りがあるなど不審な点が多いが、少なくとも当時の風潮を伝える史料ということはできる。内容は次の通り。
毛利邸・前田邸の花引用
各御殿の座敷飾りの全体を指揮したのは茶人として知られた武将の織田有楽斎(織田信長の弟)で、専好が大広間三之間の床に松の大砂物を立てたという。間口が四間(約7.2メートル)もある床は、この時代に満ち溢れた豪壮な気風にふさわしいもので、そこに掛けられた四幅対の絵の中に猿20匹が大砂物の松の枝で戯れているように見えたという。
百瓶華会
慶長4年(1599)9月16日、京都の寺町四条にあった浄土宗大雲院の落慶供養に際し、盛大な花会が催された。住持の貞安が立花の師である専好(初代)を招いて催したこの花会については、専好の50年来の旧友であるという東福寺の月渓聖澄が翌慶長5年(1600)に執筆した『百瓶華序』が詳しい。
…もっと見る それによれば、六角堂頂法寺境内の北西に立花を家業とする池坊があり、元祖の専慶から専好法印まで「十三葉」を数えるという。その中にはもちろん専応や専栄も含まれる。専好(初代)はそれらの先人より優れていたので、花を志す者は皆彼を師として従ったという。専好は弟子の中から百人を厳選して立花を立てさせたというから、すでに弟子がかなりの数に上がっていたことがわかる。
百瓶華会写真
百瓶華序
出瓶者の名は「百瓶花清衆」として記されており、うち80人余りが僧侶、その他が武士や町人だと推測される。僧侶の中には大雲院の近隣にあった誓願寺・透玄寺・浄教寺などが見え、京都の寺院の間で立花が流行していた様子が伺える。
…もっと見る 『梵舜日記』慶長2年(1597)3月11日条によれば、誓願寺堂供養の行列が六角堂から出発しており、このような寺院どうしの付き合いを通じて池坊の花がひろまっていったと考えられる。
また、100人目に記される「池坊的子帥専朝」とは、専好(初代)の後継者でのちの専好(二代)を名乗る人物である。
この花会には、貴賤・老若・遠近の区別なく多くの人々が見学に訪れたという。専慶の花を洛中の好事家たちが見に来てから百数十年たって、池坊の立花は広く世間に知られるところとなったのである。この時の花の姿については「雑草木之栄枯、量枝葉之短長、七縦八横、快哉快哉」と記されているのみだが、古枝にも美しさを見出すという専応の教えを守りつつ、より立体的な構成を示すようになったのであろう。
この花会の翌年、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、政治の中心は江戸に移る。慶長9年(1604)、東本願寺御影堂の遷座式で「池坊師弟」が立花を立てているが、これは専好(初代)と専朝すなわち専好(二代)のことであろう。専好(初代)の没年については『池坊専好立花図(冊子本)』(曼殊院蔵)のうち、寛永4年(1627)6月24日の図に「先師7年忌」と記されているので、元和7年(1621)とわかる。86歳だったと伝えられる。
能・狂言・茶の湯との交流
能・狂言・茶の湯との交流写真
能「半蔀」池坊が舞台上に立花を立てる演目。
2008年、大阪城薪能で上演された時の様子。
立花とほぼ同じ頃に広まったものとして、能・狂言がある。池坊と交流があった室町時代後半の能役者金春禅鳳が知られており、舞台上に立花が登場するのが「半蔀」という能の演目がある。『源氏物語』に登場する夕顔の上を題材としたもので、僧侶が仏前に供えた立花を供養するという場面があり、池坊が舞台正面に笠松を真とする除真の立花を立てるという演出がなされる。
…もっと見る また、「真奪(心奪)」という狂言の演目は、立花そのものを題材にしている。主人が太郎冠者をつれて立花会で使う真になる枝を探しに出かけたところ、途中で立派な真を持った男が通りかかったので、太郎冠者に命じて真を奪い取らせるという話で、立花の流行が前提となっている。
茶の湯もこの時代に大きく発展した。秀吉に重用され、最後は切腹を命じられた千利休について、表千家の第四代江岑宗左が記した『江岑夏書』に次のような逸話が載せられている。
毛利邸・前田邸の花引用
利休が茶席の花を見て、池坊が入れたものだと見抜いたという内容で、時代的にこの池坊は専好(初代)にあたる。利休が専好(初代)の門弟だったという伝承もあるが、真偽のほどは定かではない。立花を家業とする池坊が茶の湯の花もいけたことは確かであろう。茶の湯の花は、専栄が花伝書に条文を加えた生花(いけはな)と同じく、定められた形のない花であった。
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