聖徳太子創建 いけばな発祥の地
西国十八番札所、洛陽一番札所
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六角堂の歴史とご本尊
聖徳太子創建の寺
聖徳太子画像
聖徳太子画像
淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子は、用明天皇2年(587)、四天王寺建立の材木を求め、京都盆地を訪れました。太子が池で身を清めるにあたり、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地にとどまって人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建てて安置したといわれます。
正式な寺号は頂法寺ですが、御堂の形から「六角堂」「六角さん」と呼ばれ、親しまれています。門前を東西に走る道も六角通りといいます。
六角堂本尊如意輪観世音菩薩様
内陣(撮影:神崎順一)
当寺の本尊である如意輪観世音菩薩様は、名前の通り、思いのままに願い事をかなえてくれる「宝珠(如意宝珠)」と、魔を打ち砕く「輪宝(法輪)」を持っておられます。
人々の苦しみを除き、願いをかなえ、特に長寿、安産、魔除に功徳があるとされています。
平安時代に書かれた『今昔物語』に次のような話が載せられています。
ある時、観音様の熱心な信者であった年の若い侍が一条堀川の橋を渡る鬼に唾をかけられ姿が見えなくなってしまいました。侍は信心する六角堂に篭って祈ったところ、観音様よりお告げがあり、朝早くに出会った牛飼いに付いていきました。行った先には長者の家の姫君が病気で床に伏しており、そばにいた修験者が祈祷したところ侍の姿は元に戻り、姫君も病が治りました。それから先、侍も姫君も病になることは無く、観音様のご利益は希有なことであったと結ばれています。
古来より六角堂ご本尊如意輪観世音菩薩様は、特に寿命を延ばす、病気を治すなどの健康面でのご利益があるとされ、子宝に恵まれたり、難産を緩和させるといったご利益もあります。
また、「華道発祥の地」ということもあり、全国から技芸上達を祈る参拝者が絶えません。
観音の霊験
西国三十三所観音札所標石
西国三十三所観音札所標石
観音様は人の音(声)を観(観察)て救ってくれるとされています。
仏教には六道輪廻という考え方があり、人間が輪廻を繰り返す際に生まれ出る世界が6つあり、仏道に入って悟りに至らなければ六道を永久に回り続けるのだとされます。如意輪観音様はその中でも天道に迷う者を救うとして信仰されています。
後白河法皇は、歌謡集『梁塵秘抄』の中で、「観音験(しるし)を見する寺」として清水寺などと並び六角堂を挙げました。また、京の七観音や西国三十三所観音といった、霊験あらたかな観音を選んだ霊場にも、六角堂は名を連ねています。
親鸞の参籠
親鸞銅像
親鸞銅像
鎌倉時代の初め、比叡山で修行していた親鸞は、建仁元年(1201)二十九歳の時、六角堂に百日参籠するという誓いを立てました。聖徳太子を深く尊敬していた親鸞は、京都における太子ゆかりの寺院として、六角堂に思いを寄せたのです。
参籠は、夜になると比叡山を下りて六角堂に籠もり、朝には山に戻る繰り返しだったといいます。そして九十五日目の暁に如意輪観音からお告げを受け、浄土真宗を開くきっかけを得ました。
京都の中心
山門
山門
室町時代、寛正2年(1461)の飢饉にあたり、人々が集まってくる六角堂の門前で炊き出しがおこなわれました。応仁の乱後、京都は上京と下京に分かれましたが、六角堂は下京の町堂として町衆の信仰を集め、集会所や公民館のような機能も果たすようになります。
また、日本を代表する祭礼の一つ、祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は、江戸時代末まで六角堂でおこなわれていました。これらのことから、六角堂は京都の中心と認識されるようになりました。