女学校におけるいけばな教育
明治維新と東京遷都は、京都に本拠を置き、朝廷や武家と深い関係を築いてきた池坊に大きな変革を迫りました。京都では、遷都による衰退を防ぐために明治5年(1872)から京都博覧会が開催されるようになり、池坊専正は門弟を引き連れて出瓶しました。
また、専正は明治12年(1879)から京都府女学校の華道教授に就任、女性に対するいけばな教育に力を注ぎました。これ以降、いけばな人口に占める女性の割合が急上昇していきます。明治22年(1889)には東京に池坊の出張所が開設されました。
正風体の確立
専正は、習いやすく教えやすい花形として正風体を定め、明治37年(1904)には教科書として「花の志雄理」を刊行しました。
これはのちに「華かがみ」と呼ばれる教科書シリーズに収録され、版を重ねます。
正風体は、家元代見の武藤松庵が全国を巡回して指導にあたったことなどにより定着し、その後の規範となりました。
投入・盛花と応用花
一方、文明開化にともなう生活の洋風化に応じるいけばなとして、投入・盛花が成立しました。池坊もこれを採り入れ、立花・生花の応用という意味をこめて応用花と称し、池坊専威が昭和9年(1934)にその大綱を定めました。