池坊専応口伝
京都を焼け野原とした応仁・文明の乱をきっかけに室町幕府は衰退し、同朋衆が担当していた座敷飾りの花は池坊に吸収されていきます。
16世紀前半、池坊専応は宮中や門跡寺院で花を立てて「華之上手」と称される一方、専慶以来の積み重ねをもとにいけばな理論をまとめ、花伝書を弟子に相伝するようになります。
この花伝書は一般には「池坊専応口伝」の名で流布しているもので、池坊は従来の挿花のように単に美しい花を愛でるだけではなく、草木の風興をわきまえ、時には枯れた枝も用いながら、自然の姿を器の上に表現するのだと主張されています。
この考えは川端康成のノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」の中で紹介され、広く世界に知られるところとなりました。
立花基本形の成立
「池坊専応口伝」では、立て花の真と下草のあるべき姿が具体的に説明されていますが、より複雑な花形への志向も見受けられます。
専応の跡を継いだ池坊専栄の花伝書になるとそれがはっきりしたものになり、七つの役枝から構成される花形の骨法図が描かれています。この花形はのちに「立花(りっか)」と呼ばれるようになります。
「立てる」花と「生ける」花
専栄は、「立てる」花だけではなくより軽やかな「生ける」花にも関心を向け、植物の出生の姿が肝要であると述べました。当時はいけばなと並んで茶の湯が盛んになっており、茶席にいけられる花を強く意識していたと考えられます。
写真の「池坊専栄花伝書」は、天文14年(1545)に相伝されたもので、専応の花論を継承する一方、立花の骨法図を示している点が注目されます。