座敷飾りと立て花
唐物と呼ばれる中国の絵画や器物が多く日本にもたらされるようになると、それらを飾るための建築様式として、書院造が成立します。
室町幕府の将軍足利氏をはじめとする権力者の邸宅や寺院には、床の間の原形といわれる押板や違い棚などが設けられ、花瓶も飾られました。このような座敷飾りの方法は、将軍の身の回りの世話をする同朋衆によって整備されていき、仏に花・香・灯明をささげるための三具足(花瓶・香炉・燭台)も採り入れられ、真(本木)と下草からなる「立て花」が立てられました。
写真の「仙伝抄」は江戸時代初期の古活字本。室町時代の花伝を伝えるとされ、三具足の花が描かれています。
池坊専慶の登場
そうした中、寛正3年(1462)、六角堂の僧侶・池坊専慶が武士に招かれて花を挿し、京都の人々の間で評判となったことが、東福寺の禅僧の日記「碧山日録」に記されています。座敷飾りの花や専慶の花は、仏前供花や神の依代といった従来の枠を超えるもので、ここに日本独自の文化「いけばな」が成立したということができます。
現存最古の花伝書
池坊に伝わる「花王以来の花伝書」は、現存する最古の花伝書といわれ、専慶より少し後のいけばなの姿を示しています。そこには、立て花に加えて掛花や釣花など、様々な花が描かれており、いけばなが人々の生活に浸透していた様子を知ることができます。
奥書には文明18年(1486)から明応8年(1499)までの相伝由来が記されています。