元禄文化と立花
池坊専好(二代)によって大成された立花は、17世紀後半、上方を中心に栄えた元禄文化にも影響を与えました。近松門左衛門の浄瑠璃には立花の用語が多く登場し、町人の間で立花が流行していたことがうかがえます。
また、いけばなに関する書物があいついで刊行されたのもこの時期の特徴で、立花を理論的にかつわかりやすく解説した「古今立花大全」はその代表です。
池坊専養のもと、家元および門弟の立花図集も、寛文13年(1673)の「立花図并砂物」に続いて元禄11年(1698)、「新撰 瓶花図彙」が刊行されました。
東大寺大仏の立花
元禄5年(1692)、修復が完成した奈良・東大寺大仏の開眼供養に際し、池坊門弟の猪飼三枝と藤掛似水が、高さ約9メートルという巨大な立花を立てました。この頃、琉球王国(沖縄)からも入門者が出るなど、門弟は全国に分布するようになり、会頭を筆頭とする門弟組織の構築も始まります。
抛入花から生花へ
七つの役枝を「立てる」立花が普及する一方、小間や数寄屋に「生ける」軽やかな花も関心を集めるようになり、抛入(なげいれ)花とも呼ばれていました。
元禄10年(1697)に専養が校閲した「古代生花図巻」は、当時の抛入花の様子をよく示しています。
18世紀の中頃、池坊専純の代になると、抛入花は格調高い姿に整えられ、生花(しょうか)と呼ばれるようになりました。