前田邸の大砂物
豊臣秀吉によって天下統一が成し遂げられた安土桃山時代、城郭や武家屋敷に大きな床の間が設けられ、そこに飾る花が池坊に依頼されました。
池坊専好(初代)は文禄3年(1594)、秀吉を迎えた前田利家邸の四間床に大砂物を立て、「池坊一代の出来物」と称賛されたといわれます。慶長4年(1599)には、京都の大雲院で開かれた花会に専好(初代)の弟子100人が出瓶し、多くの人々が見物に訪れました。
写真は、平成24年(2012)に復元したもの。砂物は、器に砂を敷きつめることからその名があります。背後の掛軸に描かれた猿が、松の枝の上で戯れているように見えたといわれています。
宮中立花会の盛行
武家からの依頼は徳川家康が江戸幕府を開いてからも続き、専好(初代)の名を継承した池坊専好(二代)が江戸へ赴き、武家屋敷で立花を立てました。
一方京都では、立花を愛好した後水尾天皇が親王や公家、門跡たちを宮中に集めてたびたび立花会を催し、専好(二代)が指導者として活躍しました。
宮中立花会が最盛期を迎えた寛永6年(1629)、天皇は退位しますが、その後は仙洞御所で立花会が催されるようになりました。
七夕会の創始
専好(二代)によって大成された立花は、僧侶・公家・武家という枠を超えて町人社会にも普及していき、大住院以信や高田安立坊周玉、十一屋太右衛門などの高弟が輩出され、門弟の数も増えていきます。
六角堂では、宮中・仙洞の立花会を継承する形で七夕立花会が催されるようになり、京都の年中行事の一つとして定着していきました。