「幹作り」の確立
寛政9年(1797)池坊専定は、家元および門弟の立花図集としては約100年ぶりとなる「新刻 瓶花容導集」を刊行しました。
それまでの立花は、自然の草木の枝振りを生かす「生(うぶ)立て」が中心でしたが、専定の時、幹を切り継いで思うままの樹形を作る「幹作り」の技法が確立されました。
また、立花の役枝が七つから九つとなりました。
生花の地位向上
立花よりも簡略な花形である生花はこの頃大きな流行を見せ、それに対応して「生花入門」が新設されると、門弟の数が急増していき、女性の入門者も見られるようになります。地方では名手と呼びうる有力者が群立する状況となり、主として国ごとに門弟組織が整備されていきました。
また、「五ヶ条」や「七種」など、現在まで続く生花の伝授形態が定められたのもこの頃です。伝統の七夕会でも立花に加え生花が出瓶されるようになり、生花の位置付けが定まっていきます。
生花図集の刊行
文化元年(1804)に池坊初の生花図集として刊行された「百花式」、続編として同5年に刊行された「後百花式」には、地方の門弟の作品が多く収録されています。
文政3年(1820)には、技巧に走りがちとなっていた生花の正しい姿を示すことを目的として、専定の生花100図を収めた「挿花百規」が刊行され、池坊の生花の方向性が定まりました。