池坊の歴史

  • 01六角堂と池坊
    上空から見た六角堂上空から見た六角堂
    用明天皇2年(587)、四天王寺建立のための用材を求めてこの地を訪れた聖徳太子により、六角堂が建立されました。
    正式名称は紫雲山頂法寺(しうんざんちょうほうじ)といいますが、その形状から六角堂と呼ばれることが多く、古くより下京の町衆を始め、多くの人々から信仰を集めるお寺でした。
    初代の住職を遣隋使で有名な小野妹子が務め、朝夕仏前に花を供えました。それを代々の住職が受け継ぐ中で洗練され、今日のいけばなになったと伝わります。
    また住職は、その住坊を境内にあった池のほとりに構えたことから「池坊」と呼ばれるようになり、現在でも六角堂の住職が池坊の家元を兼務しています。
  • 02池坊の活躍
    現存する最古の花伝書『花王以来の花伝書』現存する最古の花伝書『花王以来の花伝書』
    その池坊の名が、いけばなの名手として初めて記されたのが寛正3年(1462)のことで、いけばなに関する記録として現在残る中では最も古いものです。
    京都の名刹 東福寺の禅僧 太極(たいぎょく)の日記『碧山日録(へきざんにちろく)』の中に、「六角堂の僧侶 池坊専慶が武士に招かれて花を挿し、京都の人々の間で評判となった」と書かれました。
    東山文化の興隆と共に、今日の日本建築に繋がる書院造が成立。その中で室町幕府の将軍 足利氏の同朋衆により「座敷飾りの花(=部屋を飾る花)」が整えられました。
    これらの花は、いけばなのルーツとも言える仏様に供える花などとは明らかに異なっており、ここに日本独自の文化「いけばな」が成立したということが言えます。
  • 03池坊の心『池坊専応口伝』
    池坊専応口伝池坊専応口伝
    16世紀前半、池坊専応は宮中や大寺院で花を立てて「華之上手」と称される一方、専慶以来の積み重ねをもとにいけばなの理論をまとめ、花伝書を弟子に伝えるようになります。
    この花伝書は一般には『池坊専応口伝』の名で知られ、池坊は従来の挿花のように単に美しい花を愛でるだけではなく、草木の趣きを捉え、時には枯れた枝も用いながら、自然の姿を器の上に表現するのだと主張されています。
    この考えは「池坊のいけばなはどのようなものであるか」を定義づけるもので、池坊のアイデンティティとも言えます。
    今日でも池坊いけばなに携わる人々の間で学び続けられているだけでなく、川端康成のノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」の中で紹介され、広く世界に知られるようになりました。
  • 04前田邸の大砂物(おおすなもの)
    前田邸の大砂物(復元作品)前田邸の大砂物(復元作品)
    豊臣秀吉によって天下統一が成し遂げられた安土桃山時代、城や武家屋敷に大きな床の間が設けられ、そこを彩る花の制作が池坊に依頼されました。
    初代専好は文禄3年(1594)、秀吉を迎える前田利家邸の四間床(幅7.2m)に大砂物を立て、「池坊一代の出来物(できぶつ)」と称賛されたといわれます。
    これは後世に「前田邸の大砂物」と呼ばれる作品で、この時の伝説を描いた映画『花戦さ』(主演:野村萬斎)が2017年に公開され、多くの人々の目を楽しませました。
  • 05二代専好の活躍
    専好立花図専好立花図
    初代専好の後を継いだ二代専好は立花(りっか)の名手として知られ、数々の芸事の中でもとりわけ立花を愛好された後水尾天皇の命により、度々宮中で催された立花会(りっかえ)にて指導役・採点役を務めました。
    繊細・優美を特徴とする寛永文化にふさわしい立花の様式を大成して、寺院や公家社会、さらには町人たちの間にも立花の流行を巻き起こしました。二代専好の作品は、その当時の人々により描き残され、今日でも数多く伝わっています。
    そのうちの一つが池坊に伝わる『立花之次第九十三瓶有(りっかのしだいきゅうじゅうさんぺいあり)』(通称:専好立花図)で、いけばな史を語る上で重要な資料であることから、重要文化財の指定を受けています。
  • 06いけばなのひろがり
    江戸時代に池坊で行われた立花会を描いた絵図江戸時代に池坊で行われた立花会を描いた絵図
    二代専好により大成した立花は、上方を中心に栄えた元禄文化にも影響を与えました。近松門左衛門の浄瑠璃には立花の用語が多く登場し、町人の間で立花が流行していたことがうかがえます。
    立花が普及する一方、小間や数寄屋にいける軽やかな花も関心を集めるようになり、それらは抛入花(なげいればな)とも呼ばれていました。18世紀の中頃には、抛入花は格調高い姿に整えられ、生花(しょうか)と呼ばれるようになりました。
    時代が進むにつれ池坊の普及が進み、北は松前(北海道)から南は琉球(沖縄)、大名から町人まで男女を問わず入門が相次ぎ、地域的にも階層的にも、池坊のいけばなが広まっていきました。
  • 07学校教育への導入
    池坊専正の自撰による生花作品集「専正生花集」池坊専正の自撰による生花作品集「専正生花集」
    明治維新と東京遷都は、京都に本拠を置き、朝廷や武家と深い関係を築いてきた池坊にとって存亡の危機ともいえる出来事でした。そんな事態に対応するため、池坊は変革を打ち出し、そのひとつに学校教育へのいけばな導入に取り組みました。
    家元 池坊専正は明治12年(1879)から京都府女学校の華道教授に就任し、女性に対するいけばな教育に力を注ぎました。家元が門弟でもない一般人に対し直接指導することは、それまででは考えられないことで、その意味でも画期的な事例でした。
    また習いやすく教えやすい花形として正風体を定め、明治37年(1907)には教科書として『花の志雄理(しおり)』を刊行しました。これはのちに『華かがみ』と呼ばれる教科書シリーズに収録され、版を重ねます。 正風体は、家元代見である武藤松庵が全国を巡回して指導にあたったことなどから定着し、その後の規範となりました。
  • 08現代の池坊
    現代の池坊現代の池坊
    太平洋戦争後、世間に自由主義思想が定着する中で池坊のいけばなも姿を変え、決まりごとが無く、いけ手の人となりが強く反映される自由花が定着しました。
    また床の間の設えとして発展した立花と生花においても、生活環境の西洋化が進む現代に適合した花形を探求し、昭和52年(1977)に生花新風体、平成11年(1999)に立花新風体が当代家元 池坊専永により考案されました。
    戦前から海外での普及が行われていましたが、昭和43年(1968)に池坊サンフランシスコ駐在員事務所が開設されたのをきっかけに、より一層普及が進み、今日では33の国・地域で121の拠点を設けるまでになりました。
    今なお『池坊専応口伝』を始めとする古からの教えを守りつつ、時代に合った作品を求め常に進化し続ける池坊人たち。日本文化の担い手として、過去から現在、そして未来に向けて華道を受け継ぎ、発展させています。